藤堂高虎の伊賀上野城散策
今日は伊賀上野市にある伊賀上野城をぶらっと散策してみました。
先ずは腹ごしらえという事で駅前のハイトピア伊賀2Fのagattoさんに行ってみました。
agatto agattoは、伊賀の方言で「台所の入り口」の意味。
気軽に立ち寄ってほしい、皆様の集いの場となればという想いで名づけました。
ただお茶を飲むだけでなく、ここで人が集い、出会い、コトが生まれる、 伊賀での暮らしがほんの少し豊かになる、おいしい時間をお届けします。
店内はナチュラルテイストな家具雑貨で落ち着いた雰囲気を作り出しています。
この時間がゆったり流れる感じが非常に心地よい。
店員さんの応対も気持ちよく初めて来たのに何度も訪れたような気持にさせてくれます。
こういう雰囲気作りって接客業にはとても大切な事ですね。
お客様を迎えるのだというなんつーか世界観(?)みたいなものが確立されているという事かな。 このお店はそれが当たり前に普通に出来ているのが素晴らしい。
ジンジャエールというものはこういうものだ!これが本当のジンジャエールの味なのだ!
すんげー生姜!生姜テイストというかまぢもんのショウガソーダ。
これは好みが分かれるかも知れない。
アサヒ ウィルキンソン ジンジャエール辛口 リターナブル瓶 190ml×24本
- 出版社/メーカー: アサヒ飲料
- 発売日: 2011/09/03
- メディア: 食品&飲料
- 購入: 4人 クリック: 760回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
私はロコモコを頂きました。
ごちそうさまでした♪ お近くにお立ち寄りの際は是非行ってみてください。
さて伊賀上野城へ。
今日は暑かったのですが木陰ではひんやりと涼しい風が吹き抜けてゆきます。
ああ、さわさわ涼やか~。
あれに見えますが築城の名手と誉れ高い藤堂高虎が築城の伊賀上野城天守閣でございまする。
こじんまりとした天守。
ここの城の見所はなんと言っても高石垣。
美しくそりあげた姿。
非常に美しい。
ぐるりと天守閣の後にまわってみる。
あの山の向こうが滋賀県です。
信楽の辺りですかね。
天守閣を後からパチリ☆
この角度かっこいい。
天守閣が博物館のようになっているという事で500円払って見学する事に。
中は写真撮影禁止(前回の大阪城みたいに)だと思っていたのですがそうではなかったようです。
博物館から出て他の人のブログを読んでたらみんなバンバン写真撮ってブログに貼りまくっていらした。
高虎のタケコプターみたいな兜(レプリカ)を撮ってきたらよかった。
伊賀上野城の階段は結構ゆったりしていて上がり易かったです。
彦根城のは怖かった。
伊賀上野城は昭和初期に再建されたものなので築城からそのままの姿を留めている彦根城とは細部の造りが違うためでしょう。
それにしても現存天守閣が12城しかないなんて哀しいです。
死ぬまでに全部登城してみたいと思いました。
美しい石垣。
石垣フェチになりそうです。
信長公の安土城跡がうっそうとして手付かずでもの寂しいのに比べたらここは光ある場所のように明るい。
しかし逆に安土城跡には魔が巣くうようななんとも言えない独特のオーラを感じました。
まさに第六天魔王が居城という感じでした。
伊賀上野城の高石垣は以前日本一高いと謳っていたようですが、最近大阪城の高石垣の方がわずか0.5m高いのだという事がわかり、伊賀上野城の高石垣は日本で二番目の高さになってしまいました。
伊賀上野城の説明書きでは『日本で1~2番目に高い』となっています。
1番なのか2番なのか、そこはもやっとしておきたいみたいです。
外濠から石垣を撮りたかったのでが木が鬱蒼としていてうまく撮れないや。
帰り道に創業慶長年間(1600年前後ということだと思います)の老舗御菓子屋さん桔梗屋織居さんに行ってみました。
さっきお昼をいただいたagattoさんの裏筋辺りです。
落雁にあんを入れた御菓子は昔お客さんに頂いて食べたような記憶があります。
和三盆を型で押し固めたものも懐かしい。
ネット通販もされていらっしゃるようですので気になる方はインターネットでどうぞ。
お近くにお越しの際は是非いらしてみてください。
お終いに藤堂高虎という 戦国武将についての知識が私にはあまりなく、いつもの如くウィキ先生にちょっと聞いてみました。
それではウィキ先生よろしくおねがいします。
体格
6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。
高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。
左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。
家臣への対応
ある時5人の家臣(遊女好きの家臣2人と博打打ち好きの家臣3人)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。
この時高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣は減知の上、百日の閉門として家中に残した。
不思議に思った側近が尋ねると、高虎は「女好きは物の役に立たないが、博打好きな奴は相手に勝とうとする気概がある」と答えたという(南条範夫『武家盛衰記』)。
高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという(江村専斎の『老人雑話』)。
この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。
人に情けを掛けねばいけない。
そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。
情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる。
戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。
生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。
そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。
開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。
高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。
皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。
ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した。
高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。
家康公の厳命に背いてはならぬ。
殉死は絶対に許さぬ」と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。
この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。合戦で右腕を失っており、そのため生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。
しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。
命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという。
江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。
それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。
かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。
これ本意となすべし」である。
つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。
現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている。
加藤嘉明との対立
高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
別の話もある。
陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。
しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。
秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。
当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。
しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。
のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという(『高山公言行録』『勢免夫話草』)。
何度も主君を変える
高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。
しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。
高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。
織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。
そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。
また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。
そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。
だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと羽生道英は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。
徳川家康との逸話
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。
徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。
大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。
関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。
関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。
家康は「どうしてだ?」と訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。
このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。
かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。
そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという。
秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。
次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。
家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという。
元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。
心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。
政治家
武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。
三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。
この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。
また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。
これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。
高虎と餅
講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。
だが彦兵衛は「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。
後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。
白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
遺言
高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。
わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。
高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。
他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事、長酒はしてはならない事を述べている。
特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている。
他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している。
その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している。
とまあ、主君を色々と渡り歩く癖があったようです。
まあ、癖と言ってしまうと高虎ファンには怒られそうですが。
この時代主君を変えるというのは数多くあったようです。
それが間違っていたとも正しいとも言えませんが、藤堂家が幕末まで続いていたのならば高虎のやった事は正しいのでしょう。
浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
まあざっとこんな感じ。
眺めていて残念だったのは秀長が生きていたならなあ、という事かな?
それでも晩年の秀吉なら秀次のように秀長を殺めていたかも知れません。
歴史というのは後世の人があれやこれや暇つぶしのネタとして無責任に語り合う都合のいいツールなのかも知れません。